タヌキおやじの日々の生活 2015年05月     

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岩下哲典「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」を読破!!



良書であった。
洋泉社の新書yシリーズは、良書が多いことが判明。
また、岩下哲典という方は、はじめて我輩知ったのだが、大学の教授をされている人だそうな。
本書が面白かったので、この人の著作を一通り読んでいこうと思った次第。
1853年にペリー提督が率いる米艦隊が日本に来航したのは日本人なら大体の人が知っていることだが、その来航についてオランダ商館の商館長から予告情報がもたらされていたことを知っているのは、歴史通だけであろう。
その予告情報が、どのように当時の日本の政治に影響を及ぼしたかとどのように扱われたかということに焦点を当てた著作である。

内容の紹介(カバー裏面より引用)
『「泰平の眠りをさますじょうきせん たつた四はいで夜るも寝られず」
あまりにも有名なこの狂歌は、明治時代に入ってから作られたものだという。
同狂歌は、「ペリー来航事件」を的確に処理できなかった幕府と、右往左往する江戸の人々を嘲笑する内容だったが、幕府中枢は「来航予告情報」を入手していた。
だが、当時の幕府は、国家の存亡に関わる情報に的確な対応ができなかった。
結果、情報は秘匿されるが、幕府中枢から漏れた情報の一部は、雄藩大名や御三家に流れ、さらに幕末知識人の間でも噂になり、多くの人々の間にまで広まっていく。
そうした噂や情報の重要性に気付いた各階層の人々は、自らの将来に、情報がどう関わるかを意識し始める。
「ペリー来航」は、情報の重要性に気付いた「近代日本人」を生み出した事件でもあった。』

目次
【序】 狂歌「泰平のねむりをさます―」は後世の偽作か!?
【第一章】 吉田松陰も知っていた「ペリー来航予告情報」
【第二章】 正確な情報を知らなかった浦賀奉行所の与力たち
【第三章】 「ペリー来航予告情報」の仕掛け人はオランダだった
【第四章】 危機管理の意識に欠けていた幕府
【第五章】 老中・阿部正弘は「来航予告情報」に信憑性を置いていた
【第六章】 外様大名・黒田斉溥と阿部正弘の不思議な関係
【第七章】 時代の閉塞感を破った「ペリー来航」と庶民の姿

吉田松陰が残した手紙を分析していくと、ペリー来航の予告情報というのが当時の海外に関心を持つ者の間に広まっていたらしいということがわかったそうな。
吉田松陰は、ペリーが来る前にペリーが来ることを知っていたと。。。
なぜか???という話である。
吉田松陰は、明治維新に多大な影響を与えた人物であるので、ドラマに出てくることは非常に多いのであるが、ドラマではペリーが来航してはじめて驚いて黒船に乗り込もうと決意するように描かれているわけである。
しかし、本当は来る前から来ることを知っていたと。。。
吉田松陰は、当時、蘭学の大家である佐久間象山に師事していた。
当然、佐久間象山は、蘭学関係者や幕府などの外交担当者たちと関係があった。
どうもその筋から情報を入手したらしいと。。。
そして、次に浦賀奉行所である。
浦賀は、東京湾の入り口であり、江戸への玄関であり、浦賀奉行所は、江戸に入ってくる船の検分をする役目を担っていた。
そして、ペリー来航前に、浦賀奉行所では、米艦隊が石炭の貯蔵所を設けるために江戸に来航するらしいという噂が立つのである。
そして、奉行所の現場責任者である香山栄右衛門は、その情報の真偽について幕閣に問い合わせるも、来航はないという返事であった。
その結果、現場責任者は、情報を知らされずに不利な状態でペリー来航に対処せざるを得なかったと。。。
しかし、その裏側(幕閣)ではどうなっていたかというと。。。
やはり、吉田松陰が知り得た情報も浦賀奉行所でも噂も元をたどれば、オランダ商館からの情報であった。
米政府が日本を開国させようと政策決定するにあたり、オランダもそれに乗っかろうと商館長を位の高い人物にして、ペリー来航に備えたのであった。
そして、時の商館長は、ペリー来航時にオランダが日本と締結しようとする条約の草案まで見せている。
が、この草案は、鎖国の体面上、さすがに日本も正式には受け取れなかった。
しかし、幕府首脳は、オランダを信用せず、米艦隊来航はないと判断する。
ただ、幕府老中・阿部正弘はそうは考えなかった。
そして、そのペリー来航予告情報を薩摩や福岡藩などの有力列藩の藩主にリークするのである。
それから、阿部は、ペリー来航時に参勤交代で来た有力藩の大名が江戸にいるように取り計らう。
この辺を読むに、幕府はそれだけでは、もう対処できないほどに能力がなくなっていたのではなかろうかと考える。
そして、薩摩藩や宇和島藩などでは独自に来航予告情報を入手していた。
というのは、それらの藩は、軍備などの洋式化に力を入れており、情報を得るために、長崎に家臣を常駐させて、出島の通詞などに金品を贈ったりしていたからだ。
そのため、長崎の通詞から得た情報と、老中・阿部から得た情報からペリーの来航が確実であると考えたと。。。
薩摩藩に至っては、ペリー来航で戦争が起きることに備えて、避難のための屋敷まで完成させている。

まあ、情報というものがどのように一国の政治に作用していくかということの一例を示す良書と思う。
幕末について詳しくなりたい人は必読と思われる。

自分の評価
★★★★☆80点

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関東育ちの三十路親父です。
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現在、日本百名城攻略中!!
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