タヌキおやじの日々の生活 熊谷公男「蝦夷と城柵の時代」を読破!!     

熊谷公男「蝦夷と城柵の時代」を読破!!


内容の紹介(カバーより引用)
『古代国家は蝦夷の地へ進出し、渟足柵や多賀城などの城柵を築く。
 そこにうまれた交流と軋轢は、東北にいかなる歴史的変化をもたらしたのか。
 古代国家の蝦夷支配の変遷や蝦夷の生活文化に迫り、古代東北の転換点を描く。』

目次
序 国家支配のはじまりと蝦夷の抵抗・・・熊谷公男
一 城柵の設置と新たな蝦夷支配・・・永田英明
 1 改新政治と東北 2 斉明朝の北方政策 3 出羽国の成立と陸奥国の再編 4 多賀城創建と辺境政策の転換 5 出羽柵の秋田移転と奥羽連絡路の開削 6 天平産金 7 城柵制支配と蝦夷
 コラム 渤海使の出羽への来航
二 律令国家形成期の移民と集落・・・菅原祥夫
 1 歴史的沿革 2 大化前代の様相 3 大化以後の様相 4 移民の出身地と移配先の関係 5 文献史学との対照
三 版図の拡大と城柵・・・村田晃一
 1 城柵の出現 2 城柵の定型化 3 城柵の多様化 4 飛鳥・奈良時代につくられた城柵の特質
 コラム 伊治城の弩
四 北縁の蝦夷社会・・・宇部則保
 1 集落の展開 2 末期古墳の成立と展開 3 日本海側の様相 4 擦文社会の成立と東北北部
 コラム アイヌ語地名
五 東北への仏教の伝来と寺院造営・瓦生産・・・佐川正敏
 1 日本への仏教伝来と初期寺院の造営 2 領土拡大政策と陸奥国への仏教伝来 3 藤原京遷都と郡山遺跡Ⅱ期官衙および附属寺院の造営 4 郡山遺跡Ⅱ期官衙段階の陸奥国各郡の寺院造営と伽藍配置 5 郡山遺跡Ⅱ期官衙段階陸奥国各群のその他の寺院造営 6 陸奥国初期寺院の軒瓦生産と関東造瓦生産の支援体制
六 出土文字資料と多賀城碑・・・吉野武
 1 出土文字資料 2 多賀城碑
七 蝦夷支配体制の強化と戦乱の時代への序曲・・・熊谷公男
 1 藤原仲麻呂政権の積極的版図拡大策 2 蝦夷の反発と柵戸・城柵の変化 3 東北の豪族 4 称徳・道鏡政権下の蝦夷政策 5 三十八年戦争の勃発とその原因
参考文献
略年表

中学や高校で習う日本の歴史では、あまり触れられていないが、7世紀後半から9世紀後半まで、大和朝廷は、現在の東北地方に住んでいた蝦夷と呼ばれる人々と戦争を繰り広げ、それらの人々を支配下に置き、最終的には本州全土を手中に収めた。
歴史の教科書に載っているのは、清水寺を創建したと伝えられる坂上田村麻呂が征夷大将軍として、東北地方に派遣されて、蝦夷に勝利したという記述くらいであろうか。
田村麻呂が遠征したのが、西暦796年~801年くらいである。
日本の軍事史という側面から見ると、天智天皇や天武天皇が壬申の乱に勝利し、大化の改新をおこして、律令国家を築いた。
また、同期間に白村江の戦いで、日本軍は完全に朝鮮半島からその勢力を駆逐され、朝鮮半島に軍事力を送る必要性がなくなった。
また、律令制度による一種の国民皆兵制度と言ってよいであろう軍団が各国ごとに作られた。
その軍団の兵士は、防人(さきもり)と呼ばれたみたいだ。
ちなみに一軍団は1千人ということで、後の武士による軍隊と違って規格化された部隊であった。
その後、大和朝廷は、大陸に向けていた軍事力の行使を、北の蝦夷に向けて行使するようになるわけである。
まあ、ある意味必然と言ってよいかと思う。
天下統一した豊臣秀吉が、戦国時代に膨らんだ兵力を朝鮮半島に向けて行使したのと多少似ている。
これも、ミリタリーパワーバランスがどのように国家や民族間の関係に影響していくのかがわかって面白い。
蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったかというと、基本的に縄文文化を受け継いだ人々であり、一部は農耕をし、一部は狩猟をし、文化的にも大和側の影響を強く受けたり、あまり受けなかったりと、さまざまであったようだ。
参考だが、北海道に見られるアイヌ語の地名によく似た地名の南限が宮城県や山形県のあたりだそうな。
例えば、北海道には幌内(ほろない)という地名があるが、津軽半島にも袰内(ほろない)、宮城県にも保呂内(ほろない)といった地名があると。。。。
なので、蝦夷の人々は、アイヌ人と似た言葉を話していたのではなかろうかと著者は述べている。
蝦夷の人々は、大和朝廷によって平定され、大和側の人間と混血していき、一部は、北海道にのがれ、もともと北海道に居住していた蝦夷とともにアイヌ人になったという理解でよいのであろうか。
大和朝廷の版図の拡大であるが、7世紀中ごろで越後、会津の線が北限であったのが、8世紀には、秋田県の中間、宮城県の北部の線が北限になり、9世紀前半には、秋田県の北部、岩手県の中間の線が北限となった。
その境界を防衛するために、大和朝廷が建造したのが、いわゆる城柵、のちの城であった。
例えば、有名なのは、多賀城、秋田城、志波城、胆沢城などであり、これらは、もともとは、多賀柵とか、出羽柵とか呼ばれていた。
これらは、基本的に矩形の城であって、中国の城と似ていたようだ。
蝦夷との戦闘が激しくなるにつれて、二重三重と城壁が強化されていったようだ。
そして、それを守ったのが、鎮兵と軍団兵であった。
軍団兵は、城柵がある国の住民から律令制に基づいて徴兵した兵士であって、国司の指揮下にあった。
それに対して、鎮兵は、坂東諸国の軍団より選抜されて派遣されてきた部隊であった。
また、征服した蝦夷の土地には、さかんに移民がなされた。
そのため、地名として、移民がもともといた地名が、移民先の地名として残っているところも多々あるということだ。
そして、大和朝廷 VS 蝦夷 の戦いがもっとも燃え上がったのが、三十八年戦争であった。
この本を読んで初めて知った言葉である。
この戦争が始まったのが、774年であり、海道の蝦夷が蜂起し、桃生城という大和側の城を陥落させた。
坂上田村麻呂が派遣されたのが、796~801年なので、この人は、この戦役をおさめる役割を果たすことを求められたのであろう。
どうも、中学高校で習う日本の歴史は、大和朝廷の中央での出来事しかないように思えるので、大和朝廷が平城京や平安京でまつりごとを行っている間に、北境の地では、貧乏くじを引かされた防人たちが、蝦夷との最前線に立っていたということも学習したほうが良いのではないかと思う。
どうも、日本というと、この2千年、単一民族国家であるという誤解を持ちがちだが、本州においては、7世紀~9世紀まで、大和朝廷と蝦夷が戦いを繰り返しており、その後、北海道のアイヌ人を日本に加えたのが、江戸時代や明治時代であり、沖縄を日本に加えたのが、江戸時代?明治時代であり、決して単一民族国家ではないということを教えてくれる一冊であると思う。

関連記事
城郭シリーズ第197弾『多賀城』
城郭シリーズ第198弾『志波城』
※古代城柵のイメージがつかめると思う。

自分の評価
★★★★☆80点

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