タヌキおやじの日々の生活 井上宗和「日本の城の基礎知識」を読破!!     

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井上宗和「日本の城の基礎知識」を読破!!


続いて、また日本の城郭についての本。

目次
城とは何か 城の定義
城のはじまり
 人はなぜ城を造ったか/城はどのようにして発達したか/日本列島の城のはじまり
日本の城 その発達
 古代の城/大和朝の城/平安朝の城/戦国大名の城/近世大名の城/近世の要塞/沖縄の城
日本の城 その種類と分類
 系列による分類/年代による分類/地域による分類/発生による分類/地形による分類/立体形状による分類/平面形状による分類/土木形式による分類/建築様式による分類/構築者による分類/戦術的な分類/軍学による分類
日本の城 その構想と技術
 選地・城地の選定/建築計画/土木工事/建築工事/築城の人員構成/築城術について/城の図面について
日本の城 その機能
 住居防御系の城の機能/戦闘防御系の城の機能/城の機能と運用について
日本の城 その構造
 住居防御系の城の構造/戦闘防御系の城の構造/沖縄の城の構造
日本の城 その攻城と守城
 中国の攻城・守城の法/日本の城の攻城・守城の法/攻城兵器
城の用語事典
参考文献
城郭年表

弥生時代には、住居が堀や土塁や柵で囲まれている環濠集落が数多く存在した。
これは、全国の発掘結果から明らかになっている。
そして、その防備が一番固くなったのが、倭国大乱の時であった。
その後、大和朝廷の統一によって戦乱が終結し、ひとびとは不便な環濠集落内に住む必要がなくなり、環濠集落は消えていった。
そして、環濠集落がきえたあとに大和朝廷によって築かれた城が、西域城塞と北辺城柵である。
西域城塞とは、白村江の戦で敗れた日本軍が、唐軍や新羅軍の九州への上陸を恐れて建築した城郭群であり、朝鮮の技術を用いて建築されたので、朝鮮式山城と呼ばれる。
そして、その後、大和朝廷は、中国から律令制度を導入する。
律令制度に基づく、各種制度や軍隊がつくられ、それ以後の城塞は中国式のものになった。
律令制を取り入れた後の大和朝廷の敵は、北方の蝦夷であった。
蝦夷の反乱や平定のために、北辺城柵が建築された。
これは、中国式に基本的に矩形のものであり、朝鮮式山城が避難所としての機能が強かったのに対して、北辺城柵は、普段からそのなかで、軍団や文官が居住する住居を守るものであった。
世界でいう城郭都市に近い。
北辺城柵を守った軍団は、国民皆兵に近いものであり、一軍団、1000人であり、半分は歩兵で、半分は騎兵であった。
そして、有事になると、一軍団は、三倍に増員されたそうである。
大化の改新の改革の中の重要なものの一つに軍事制度があり、その一端が、閉塞、軍団、兵庫であった。
閉塞とは、関所と同じであると考えられる。
関ヶ原や箱根のような要所に設けられた。
兵庫は、各軍団に付属していて、常備の兵器を納め、その管理がなされていた。
兵庫県の「兵庫」は、上記の大和朝廷の兵器庫があったことから来ているらしい。
そして、蝦夷を平定し、本州すべてを制圧した後は、軍団や城柵は維持されなくなり、それと前後して、各地の豪族は自衛のために武装するようになった。
これが武士の始まりである。古代が終わるとともに中世が始まったと。。。。
日本の古代は、まさに朝鮮や中国の制度、軍隊、城郭を真似たものであった。
ようやく、真に日本オリジナルの城郭や制度や文化が生まれ始めたといってよいと思う。
武士は、居館を堀や土塁で囲んだ。
これは、方形館であり、現在のこる近世城郭の原点といえる。
この方形館が、北辺城柵や都城から影響を受けているかどうかは、何とも言えないと思う。
しかし、この方形館は、それほど、防御力の高いものではなかったので、避難所的な城が近くの山の上に建築され始める。
次第に、城は、避難所ではなくて、住居を守るための城になっていき、その後は、政治の中心として、家臣の屋敷、ひいては、城下町をも守る惣構えの城が生まれていく。
北辺城柵は、中国の技術を導入した人工的なものであったが、自然発生的に惣構えという同じ目的を持つ城塞都市が生まれたのは興味深い。
ただ、海外と比べて、日本では、異民族による征服を受けなかったので、民衆が残虐行為を受けることが少なく、そのため、海外の城郭都市と同じというと語弊があるであろう。
海外の城郭都市は、最外殻が一番、堅固に建造されているのに対して、日本の惣構えの城郭都市などは、中心になるにつれて堅固になっている。
豊臣秀吉による天下統一がなくて、さらに戦乱が続いたら、日本の城も大砲に対する防御を考慮したものに進化したと思われるが、大坂冬の陣で、徳川家康が大阪城攻めに大砲を使用したのが最後の攻城戦となり、日本の城は大砲に対応したものとはならなかった。
一方、ヨーロッパでは、戦乱が続き、特にドイツなどでは、三十年戦争で人口が三分の一になるような戦乱が続いた。
その結果、ヨーロッパの軍事技術は飛躍的に進歩し、江戸幕府や各藩は、幕末、軍事技術をヨーロッパより導入することになる。
それが、稜堡式城郭であり、大砲や鉄砲の発展に対応したものであった。
話は戻るが、日本の城が惣構えという結論を導き出したのは、海外の城郭都市と同様な結論であると考えられる。
合理性を追求していけば、同じ結論に至るということであろう。
ただ、日本にない条件というのは、異民族の侵略という条件であり、そのため、その条件が抜けた状況に対応した城郭が生まれたといってよいと思う。
また、もう一つ日本に少なかった条件というのは、鉄砲は大量に使用されたものの、大砲があまり使用されなかったということである。そのため、その状況に対応した城郭となったということであると思う。
戦乱が大坂夏の陣以降も続いたのであれば、攻城戦に大砲が多用されるようになり、城郭も大砲に対応した稜堡式城郭に近いものになったであろうと推測される。

自分の評価
★★★★☆75点

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Author:tatsunootoshigo
関東育ちの三十路親父です。
今は、関東に住んでいます。
現在、日本百名城攻略中!!
座右の銘は、
「はやきこと風の如く、
 静かなること林の如し、
 攻めること火の如く、
 動かざること山の如し」。
よろしくです。
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