タヌキおやじの日々の生活 熊谷公男「日本の歴史03―大王から天皇へ」を読破!!     

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熊谷公男「日本の歴史03―大王から天皇へ」を読破!!



空白の4世紀から7世紀後半の大化の改新の直前まで。

目次
プロローグ 「天下」の支配者
第一章 列島と半島と大陸―東アジア世界の中の倭国
第二章 「治天下大王」の登場
第三章 自立する倭王権
第四章 王権の転機
第五章 律令国家への歩み
エピローグ 「天皇」の出現

空白の4世紀とは、中国の王朝の歴史書に倭国の記載がなかった時期、要するに戦乱でその余裕がなかった時期で、信用が置ける史料が少ない時期であるわけだ。
しかし、まったく歴史的資料がないわけでもなく、4世紀中ごろに朝鮮半島の百済王から倭王に送られた七支刀や、朝鮮半島の歴史書や、高句麗の広開土王が建立した碑文とかがあるわけである。
それらによると、4世紀中ごろから百済を含む朝鮮半島南部の国々は、倭(日本)と友好関係にあった。
4世紀後半に、倭は、朝鮮半島に攻め入った。
これは、広開土王碑の記載だが、倭は、百済と新羅と戦って臣従させ、その後、広開土王率いる高句麗軍と戦って敗れる。
その後、百済と新羅は、高句麗の臣下に戻ったという内容である。
実際問題として、朝鮮半島の史料では、百済は、倭に人質を送り、新羅は、高句麗と倭に人質を送っている。
倭、ようするに大和王権は、百済と加耶諸国に大きな影響力を持っていたらしい。
倭としては、それらが持つ先進的な文化とか技術に魅力を感じていた。
対して、百済とか加耶諸国は、倭に軍事的な支援を期待していたらしい。
日韓の歴史学者の間で、論争になっているのは、任那日本府という日本書紀にある植民地みたいなものが朝鮮半島南部にあったかどうかということである。
著者の熊谷氏は、基本、百済、加耶諸国に対する倭国の影響力は、支配とまでは到底呼べないゆるやかなもので、韓国の歴史学者寄りであるように感じられた。
しかし、その一方で、加耶諸国の一国である金官国=任那日本府?というような書き方もあった。
五世紀になって、倭の五王たちは、中国に権威を認めてもらうために、官位を申請するわけである。
そして、安東将軍とかの官位をもらうのだが面白いのは、軍事的に影響力を及ぼしている百済や新羅よりかなり低い官位しかもらっていないということである。
このあたり、辺境の国の悲哀を感じる。
そして、倭の大王たちは、百済や加耶諸国の統治権を認めてもらえるように中国にはたらきかけるのだが、これもなかなかうまくはいかなかったようだ。
現在でもそうだが、外交下手は伝統といってよいかもしれない。
倭(ヤマト)という地名は、奈良県の一地方の名前であった。
それを、中国は大和王権の総称とした。
その後、大いなる倭(ヤマト)で大倭(ヤマト)と呼ぶようになり、倭を和に変えて、大和(ヤマト)と感じが変わった。
大和は国のまほろば。。。と言ったのは、誰だったか???本居宣長???
一地方の呼び名が、国全体の名前になったということらしい。
ちなみに、この時代、天皇の呼び名は大王(おおきみ)であった。
天皇という呼び名が使われ始めたのは、天武天皇のころかららしい。大化の改新の辺りだ。
古代の日本の歴史は、朝鮮半島の歴史と密接な関係があったといえるであろう。
基本、高句麗と新羅と百済だが、新羅と百済の間に、加耶諸国という小国のあつまりがあった。
これらの状況が変化したのが、6世紀はじめである。
新羅と百済によって、加耶諸国が草刈り場になったと。。。
そして、そのほとんどが、新羅と百済のものになった。
まあ、要するに倭国の影響力なんてそんなもんであったと。。。。
ある意味、朝鮮南部諸国のよいように使われたのかもしれない。
その後、百済から仏教が伝来する。
意外にも、聖徳太子については、淡白な記載しかなかった。
実際の聖徳太子の業績に関しては、疑問符がつくものが多いらしい。
朝鮮三国の中で、一番賢かったのが、新羅であろう。
この国は、5世紀初めは、倭国と高句麗の両方に人質を送らなければならないほど、困っていたが、中国の律令制度を取り入れて、軍事や諸制度を整え、中国の唐と結んで、百済をまず滅ぼす。
百済は、日本と友好を結んでいたので、それを再興すべく、大和朝廷は、兵を送るわけである。
そして、新羅と唐の連合国と白村江で戦って、惨敗したと。。。。
その後、唐・新羅は、高句麗を滅ぼし、新羅は、唐の統治下になっていた旧百済・高句麗領を掠め取ったと。。。
新羅は、したたかである。
白村江で、日本軍は、国造軍といって、国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地方の豪族の軍の集合体であって、指揮系統がしっかりしていなかった。
一方、唐と新羅は、律令制度でしっかりと規定されたある意味近代軍隊に通じる軍隊であったし、実戦経験も豊富であった。
大和朝廷にとって、この敗戦のショックは相当なものであったらしい。
天智天皇は、唐・新羅が九州に上陸するのを恐れて、朝鮮式山城を各地に建築し、それらに備えた。
200年近くにわたって、半島に有していた権益を大和朝廷は失ってしまったわけである。
それどころか、やり返される虞があると。。。。
このショックが、大化の改新につながったとしている。
大化の改新とは、律令制度による強国強兵政策であり、白村江の失敗を繰り返さないための改革であった。
大化の改新については、次の巻で書かれるらしい。
この巻では、壬申の乱で、天武天皇が勝利するところぐらいで終わっている。
この巻と次の巻を読んで思ったのだが、日本史においては、大化の改新というのは、明治維新と同じくらいの事件だったわけである。
両方とも、外国の脅威によって、国を改革しなければ侵略されるという恐怖からなされ、その外国の制度や技術を取り入れたわけである。
明治維新というのは、非常に新しいことのように感じるが、似たようなことを大昔に日本人の祖先はやっていたわけである。
過去に例があるので、明治維新もうまくいったのかもしれないと思ったりもした。

自分の評価
★★★★☆75点

関連記事
日本の歴史01―縄文の生活誌
日本の歴史02―王権誕生
日本の歴史03―大王から天皇へ
日本の歴史04―平城京と木簡の世紀
日本の歴史05―律令国家の転換と「日本」
日本の歴史06―道長と宮廷社会
日本の歴史07―武士の成長と院政

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